【 子育て日記 】 VOL.1

元祖toto’s WEBSITE
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VOL.04

2001/08/01 交通事故 VOL.0 長女が退院しました  長女
 
 1999年12月、意識不明になって以来、周囲の皆さんに助けられた長女。脳外科への通院もすっかり減りましたが、足の骨は、後回しでした。そして、7月初旬に再入院して、足(ひ骨)の再手術を受けた長女が、無事、本日退院しました。チタンでつないで、ギブスも外れました。後は、日にち薬。そして、これから家庭でのリハビリ、ストレッチの日々がまた始まります。でも、心も体もすっかり元気です。

 
 2001/08/01 UP 0001  2001/08/05改


1999/05/11 扁桃腺摘出 (扁桃摘出術)  三女
 
 当時、幼稚園年長組。冬になると、月に何度も発熱、風邪をよくひく子だと思っていたら、お医者さんから、「扁桃腺が大きい(慢性扁桃炎)」と言われ、手術は少なくなってきてはいるが、この子の場合、摘出をした方が良いのでは、と勧められました。
 次女もすこし大きかったので、まさか、入院して摘出手術を受けるとは思っていなかったのですが、あまりに、発熱の回数が多く、最終的にお医者さんの「この子の条件の慢性扁桃炎、自分の子であれば、摘出する。」とのアドバイスで、決断しました。10日間の入院でした。ただ、大人がすると、当分物がのどを通らないという手術の後でも、三女は術後4日目から普通食。幼いほど結果が良いとも言われていましたので、納得しました。
 もちろん、術前は元気一杯で、なぜ入院したのかが分からず、元気な体のままストレッチャーに乗せられ手術室に向かう時の、きょとんとしている娘の姿に、涙が出そうになりました。嘘をつくのも大変でした。
 現在、発熱や風邪をひく回数も激減し、元気です。この子の場合、決断してとても良い結果をいただきました。

 また、この子の慢性扁桃炎については、このすこし前、のどに飴玉を詰めて私の腕の中で、チアノーゼの状態・・・。という大事件がありました。 ――― その話題は、また、いずれかの機会に・・・。

 
 2001/08/02 UP 0002


1995/10/16 命  みみ太
 
 長女が拾い上げてしまいました。小さな命。ゴミ箱に4匹。生後すぐのようでした。もう一度地面に下ろすことが出来なくて・・・、夫婦で育ててみる決断をしました。
 毎日スポイドで、人の赤ちゃん用の粉ミルクを与えていました。夜は寒いので、交代で手のひらに入れて眠り、夜も数回ミルクを与えました。あまり、成長せず3週間、やはり獣医さんに相談したところ、人用のミルクでは合わない。おなかをこわしている。また、スポイドでなく猫用の哺乳瓶で猫用の粉ミルクがあるとの事。これで順調に育ち始めました。命が一つ、生き延びてくれました。
 そして、次はキャットフード。そんな中、しっこはトイレで出来ていたみみ太が、お店で(私の目の前で)粗相。ふとみると、薄〜いピンク色のよう。血尿だと気付き即、病院。市販のキャットフードが合わず、膀胱炎。で、手当てをしてもらい、病院のキャットフードにしたら、治りました。安いのを与えてたから・・・?高級猫でもあるまいに、高級キャットフードかい!!って。それからは、(態度も)でかくなる事、でかくなる事!!

 でかくなったみみ太、乞うご期待です。

(赤ちゃんの頃の みみ太の写真は自己紹介のページにあります。)

 
 2001/08/03 UP 0003


1997/07/15 開腹手術  みみ太
 
 順調だったみみ太の成長が97年6月下旬、急に、吐く食べない、水を飲んでも吐くで、病院へ。最初は、毛玉を吐くだけとの説明だったけれど、どんどん痩せてゆき、骨皮筋ェ門。レントゲンを2度取っても、何も詰まっていない。
 でも、私には確信がありました。腸が詰まっている!!実は、みみ太、スポイドでミルクを与えていたため、その匂いがえさであると思い込み、発泡スチロール、ウレタン、ビニールがあると食べてしまうのでした。で、7月15日、レントゲンに写ってないのに懇願して、開腹手術を受けました。これ以上おいていたら、死んでしまう・・・。
 ありました、ありました。胃と腸の境に子供のおもちゃのウレタンの円柱(直径1cm弱、長さ1cm強)が!!そして・・・
 実に動物は、タフです。元気を取り戻してくれるのにそんなに長くはかからなかったように記憶しています。

みみ太の写真集(3枚だけだけど)UPしました。

指吸ってるのが手術の前の頃、寝そべっているのがその後の元気な姿です。

 
 2001/08/03 UP 0004


1993/06/22 糸球体腎炎 VOL.1  次女
 
 数日前から 頭痛、腹痛、高熱で風邪かと思っていました。(当時小学1年)夕方になると、特に痛いと訴えます。20日の夜、足先を見ると少し大きい(むくんでいました)。21日、血液検査の結果がでました。
 「糸球体腎炎」聞きなれない病名でした。22日入院。かなり落ち込みました。店もあり、4歳の次男、生後すぐの三女を抱えての入院でした。さあどうする。でも、出来る事しか出来ません。幸い、妻の実家が近く、出産後すぐの妻や子は見てもらえました。昼間は、義母が病院に付き添ってくれ、(妻は、病気がうつる可能性があり、付き添いは禁止されていました。)夜は仕事を終えた私が付き添って、病院で寝泊り。(ビール好きの私が禁酒です)
 妻が4人目の子を出産し、留守を預かる私の目が行き届かなかった事、反省しました。風邪の症状が続き次第に扁桃腺肥大の場所から、ばい菌が入り腎臓を痛めたのだそうです。
 この病気、水、塩、たんぱく質の摂取制限がきつく、ほとんど水を飲めない。味気ない食事を我慢する。(無塩調味料を使う・・・・。)1年生の子が・・・、我慢できるのか?不安が一杯でした。しかし、それをしないで、かわいそうだからと甘えさせると、一生治りにくい重い腎臓病になる事がよくあると説明を受け、本人はもちろん、家族みんなで現実を受け止めたのです。

VOL.2 へ続きます。

 
 2001/08/04 UP 0005


1993/07/09 糸球体腎炎 VOL.2 退院そしてその前後  次女
 
 暑い夏に向かって、ただでさえのどが渇くシーズン、入院中から次女は病気に立ち向かってゆきました。限られた水の摂取量、それを下回ることさえありました。まだ、1年坊主です。でも、本当によく我慢しました。おいしくない(病院関係者の方々すみません)病院食。塩分がほとんど無いのです。でも、それも我慢して栄養をつけるためにできるだけ食べました。
 こんなことがありました。中では、一番の献立であるてんぷら。大好きな なすびのてんぷら。箸から滑って、床にポトリ。残念です。外食、買い食いも出来ないのですから・・。卑しいようですが、拾い、衣をはずしました・・・。きびしい食事制限の中、おなかがすいています。少しでも食べさせてあげたかった。(院内感染の問題もあり、決して褒められたものではありませんが・・。)
 そして、完璧に制限を守ってくれ、この日退院。でもこれで終わったわけではありません。家庭で、他の子供達と違う献立の食事を我慢する日々が始まるのです。真夏です。もろもろの食事、飲料の中で1日水分600cc塩分5gの日々です。妻も献立を考え、他の子達も出来るだけ同じような献立で我慢させました(見た目だけで味付けは異なります)。そして、皆 次女の前では、水やジュース類はできるだけ飲みませんでした。

 で、完全に、この病気が次女への束縛を解いたのは翌年の1994/02/10。この日、病気に打ち克ち、晴れて過去の病歴としたのでした。

 現在、この病気で辛い思いの方、治ると信じて、決まりを守り頑張って下さい。運悪く長い闘病であられる方、病院のご指示の元 自愛の程、また御平癒を心よりお祈り申し上げます。

 
 2001/08/05 UP 0006


1993/06/16 皮膚病「水いぼ」(伝染性軟属腫)  長男
 
 三女が生まれ、家庭が手薄になったころ、長男(当時4歳)がよく痒い痒いと訴えます。見ると、首や、肩、脇などに見慣れないボツボツがあります。掻くと痛い。で血も出たり、また、小さな白いゴマ粒の様なものが落ちます。しばらくして少し減ったかなと思っていたら・・・。1993/06/26 下腹部にた〜くさん、出てしまっているのを見つけました。私の責任です。三女の出産、次女の入院とゆとりがなかった。で、観察できていませんでした。即、皮膚科へ!
 結果 皮膚病「水いぼ」(伝染性軟属腫)でした。ポロッと落ちる白い粒、これがくせものでした。そのゴマ粒みたいなのが付いた所にまたできる。あまりにたくさんあるので、先生も「これをピンセットで除けるのはかわいそうだけど、(半端じゃなく痛いのだそうです!)こうするしかないし・・。」と痛くて泣く長男を我慢させて、大きくなってはじけそうなのを十数個だけ選んで、ピンセットでつまんで除去。そして、「後は、家庭で・・・。」と。
 薬をいただき、家庭で私が一つ一つはじけそうなのを選んでは取り除く日々が始まりました。デリケートな下腹部。ここにも、そして・・あそこにも・・・。かなりつらい。本人も泣きながら我慢しましたが、私もつらい。半端な量じゃない。コツコツと、除いてゆきました。穴が空き、出血。薬を塗ります。かわいそうだけど、こうすると確実に減ってくれます。ただ、無くなったと思っても、思わぬところに飛んでいたりで、最終的に全てを除去するのに、1ヶ月以上の日数が必要でした。

 もちろん、赤ちゃん(三女)とは隔離、姉や友人達とも接触を出来るだけ避けました。本当にこいつは、軽い病気の癖に、しつこい。無くなったと思っても、どこかで息づいている。そんな、皮膚病でした。(どこで移ったかは分かりませんでしたが、プール、あるいは浴室かな・・ってことでした。)

 
 2001/08/06 UP 0007


1990/09/04 骨折  長女・次女
 
 骨折、骨のひびを含めて、数えてみれば(子供4人で)両手の指がふさがるほど。あ〜。その中でも、忘れられない事故を2件。この日長女が、幼稚園の小山から落ちて、手を突いてしまいひじ関節のすぐ上を(単純)完全骨折してしまいました。お願いしたお医者さんが、「小さい子だから、全身麻酔する方法もあるが、他の危険も考え合わせると、このまま痛みを我慢させて(私が付き添ってレントゲンを見た感じでは、角度にして5〜10度位かな)父親が子供を固定して、私(医者)が、このまま元の角度に戻してギブスで固定する方法のほうが安全だろう。」との結論でした。
 もちろん、泣き叫びます。なだめますが・・・泣き叫びます。辛かった。拷問ですもん。今でも、この選択、良かったのやら、良くなかったのやら・・。ほんの少し角度の戻りが足らない状態ですが、全く生活に差し障りなしではあります。
 このちょっと前 1990/02/21 これはビックリの事故です。3歳になった次女の不可解な事故。店番をしていると、二階で何かが落ちた大きな音。急いで駆けつけてみると・・・。18インチテレビが落ちて次女の小さな体が下敷きになっています!!なぜ?地震も無かったし・・・。聞いてみると、この少し前、母を見舞った時、私が病室のテレビを接続したのですが、触ったり見たりしたかった次女を叱って、テレビに触らせませんでした。で、どうしてもテレビの裏側を見たいという好奇心が、次女を突き動かしたんだそうです。3歳の女の子がテレビの裏側を見るため、体よりもずっと大きなテレビを精一杯の力でずらしていて・・・。ド・ス・ン!!!

 信じられます?でも、本当にあった事故でした。

 ここでの反省点、痛い足を次の日まで様子を見るため放っておきました。想像よりひどくて骨折(ひび)してはいましたが・・。ま、そちらは、ごめんで済んだんです。それよりも、あとでよく考えると、(おなかは痛くないと言ってはいましたが)内臓の診察を受けていませんでした。運良く、おなかの中は大丈夫でしたが、万が一の時、1日おいての病院では・・・。骨だけでまだ良かった・・・。今、反省しても冷や汗が出ます。

 
 2001/08/07 UP 0008


1995/01/28 風疹  元祖toto
 
 子供にはワクチンがあり、ほとんど発病しなかった、また、発病しても軽症で終わった「風疹、おたふく風邪、はしか」。今日は、私(元祖toto)の話題です。私は、自身を含めて6人兄弟なのですが、昔はワクチンも無く、小さな頃には、わざわざ、病気をもらうためにその病気の子にくっつけに行っていたなどとの話しも聞きます。そんな時代・環境に育ってきた私なのですが・・・。
 子供を育て始めた30歳代前半、私には、この3種類の病気に罹った記憶がありませんでした。「僕、その病気になったこと無い。」「そんなはず無い。」「子供がもらってきたとき移るよ。」病院の先生、看護婦さんも、「子供の頃、移らなかったなんて考えにくい。」・・・でも、私に、記憶は無い。で、この3種類の抗体があるかどうかの検査を受けました。結果は・・・・、私の記憶の勝ち。「風疹、おたふく風邪、はしか」全てにかかっていなかったのです。(みんな、驚いてくれました。トホホでしょ!?)曰く、「大人になってかかると重いよ」「混合ワクチンしたら」。でも、先生に言われました。「元気な大人なら大丈夫。」「ワクチンでも発症する場合がある。」etc.ですので、そのままにしていたわけですが・・・。
 この日、とうとう、風疹が私の体に入ってしましました。子供4人も育てているのですから、病気が感染しても不思議ではなかった。痒い、体中が痒い。そして発熱。ただ、我慢できるくらいの軽症。「このまま、軽ければいいけどな。」
 日銭で生活している、自営業者。発熱して休んでいても、気になるのはお店です。熱が少し下がっているときに、来客があると、妻に「風疹にかかった事ありますか?」と、聞いてもらって「僕は大丈夫。」といってくださるお客様相手には、ちゃんと、仕事をこなしてゆきました。ここが、自営業者の強み、また、弱みでもあります。辛いときでも、家=店 ですから・・・。幸い、あまり重症にはならず、おかげさまで数日の発熱で、初体験も終了しました。幸運でよかった。そして、健康でよかった。

 ただ、まだ、はしかとおたふく風邪が残ってはいるのですが・・・。

 
 2001/08/08 UP 0009


1991/01/28 ヘルペス性 (疱疹性) 歯肉口内炎  長女
 
 1991/01/28 兄弟姉妹で風邪が流行っていました。中で、(骨折で体力が衰えていた)長女(当時7歳)が重い症状、1991/01/29.1991/01/30.通院点滴を受けました。しかしながら、口の中に、口内炎(けんびき)が増えてきました。発熱も続き、結局、口が痛くて食べられない所まできたという事でこの日、入院となってしまいました。
 点滴は続きます。何しろ、口の中全体に数え切れないくらいの数の口内炎です。食べられないのですから・・・。水を飲むのも痛くて飲めない。しかしながら、薬が効いて、思ったよりもとても早く直っていってくれます。塗り薬、飲み薬。点滴。微熱が続き、食欲も無いのですが、口内炎の数は減ってくれます。で、すこしづつ、飲めるようになり、食べられるようになってゆきます。で、薬が効いて安定した 1991/02/05.無事退院しました。その後も少し微熱が続きましたが、回復してゆきました。―――この病気、食べられないのが辛い。口じゅう一杯に、口内炎(けんびき)。考えても恐ろしい、見た目もすごい状況でした。食べられるはずも無い。
 しかしながら、1999/07/18.長男が罹った時にはよく効く薬が出来ていて、通院で直すことが出来ました。現在では、お医者さんに早めにご相談なされば、辛い時間も短くて済むようです。

 この病気、(発症しにくい)伝染性の病気だそうです。また、ヘルペスは口だけじゃなく、目とかにも発症すると聞きます。ご注意の程。そして、普段から発症しない位の元気な体を作っておく事が1番。そうして、移らないようにする努力も必要だという事です。

 
 2001/08/10 UP 0010

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